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(このページは、主に1986年2月18日のことを書いています)

1986年当時のCDG空港ターミナル2(AFパンフレットより)
歯ブラシ1本をかたに
  パリ4日目の朝が来た。今日はローマへの移動の日で何とはなしには早く目がさめ、5時に起きた。レオナルド・ダ・ヴィンチ空港の資料やガイドブックなど見ながら時間をつぶした。

 朝食の後、7時半にチェックアウトの手続きのためフロントへ向かった。数名の他のお客さんを待って、3人めいめいに料金の支払いを済ませた。私はカード支払いだったので簡単だった。

 また、5日後の23日にパリにもどって来る関係上、ホテルを予約する必要があったのでついでに場所を変えることなくこのホテルにすることにした。「予約の証明に何かを置いて行ってくれ」とのホテルマンの頼み対して、「じゃ、歯ブラシ1本でもかたに置いて行こうか」と小林さんが言われ、皆で大笑いになった。結局、上野用のカードを機械で写し、それを証明にした。

朝焼けのターミナルとコンコルド
 来た時より少し重くなったバッグをタクシーのトランクルームに積み込み、空港へ向かった。途中、パリ市内には入り込むラッシュアワーを見ながら、こちらは逆方向でスイスイと進み、8時20分にはシャルル・ド・ゴール空港ターミナル2に着いた。 昨日ビデオで良く撮れなかった分を写そうと思い、ターミナル全体にカメラをまわした。王冠形の形状、卵形でテントを連ねたような、大きい波の様な屋根にキラキラと朝の陽光が輝いていた。

 ゲートの所でランプサイドを撮っていた時、松尾さんが「あそこにコンコルドがいる」と言われ、慌ててカメラを振った。丁度出発準備のためか、牽引車でトウーイング中でノーズランデングギヤー(前脚)が牽引車に食い込んだような形であった。高校時代に一度羽田空港で展示しているのを遠くから見たことがあるが真近に見たのは始めてであった。それにしてもジャンボより本当に細くて小さく、でも、早そうな感じがした。

コンコルド機(AFパンフレットより)
 しばらくすると案内がはじまり、ブリッジの方に行くと頭上にテレビがあり、便数や座席表示がしてあり珍しかった。非常用のためのライフベストの装着などのデモンストレーションがあり、ビデオで撮っているとスチュワーデスの方から「そのビデオは私が持っているのと同じ、東京で買ったよ」と言われた。エアーバスA300は9時5分、力強くテイクオフして次ぎの目的地のローマ、レオナルド・ダ・ヴィンチ(フミチーノ)空港へ向かった。

モンブランの上で窓あけて?
 水平飛行に入り、朝食サービスがはじまった。バターやチーズにも少し慣れてきたが私はジャムとパンの方が合うようだった。それにしてもスチュワード、スチュワーデスが良くこまめに働いているのには感心した。9時40分頃に「モントブロンコ(モンブラン)・・・・」などの機内アナウンスがあった。左下に雪を頂いた険しいアルプス山脈が見えた。

 ビデオをかまえたが残念ながら窓が汚れており、良く見えなかった。改めて、窓ふきも大事な仕事、重要なサービスの一つと思った。小林さんが「モンブラン良く見えないね。上野君、外に出て窓ふいてきたら」と言われ、「そうですね、私も仕事でたまにしますから、窓あけて磨いてきましょうか」と言って笑った。

冬でも明るい陽光
 
アルプス山脈を過ぎ、しばらくすると日差しがきつくなってきた。「トリノ、ジェノバ・・」などのアナウンスがあった。山地を過ぎると平原や畑のような緑一面と言って良いほどの大地が見えてきた。所々には、湖や池もあり、キラリと陽光に輝いていた。2月なのでイタリアだって、冬と思いながらも、ここはもう春かと感じた。飛行機は段々高度を下げアプローチに入り、眼下は田舎のような風景があり、手にとるようになってきた。ずっとビデオをまわしていたが気ずかない内にドーンと言うような感じで着陸した。

自動小銃と到着ロービー
 タキシーウエイを凄いスピードで走り、ランプにスポットインすると緑色のタラップ車と抵床式のトレーラーバスが近寄ってきた。ターミナルビルは古い建物で中は少し薄暗かった。手荷物用のベルトコンベアーや到着ロビーをビデオで撮っていると、自動小銃を肩から下げている兵隊が「撮ってはダメ」と言った。

 私は慌てて、ビデオのスイッチをきり、レンズに蓋をして、「これでいいか?」と言ったところ、何も言わなかった。大変な空港にきたものだと思った。到着ロビーそのものは分かりやすい案内板、親切そうなガイド嬢、ベッドのマークのついている仮眠室などまあまあの所と思った。

エマヌエーレ2世記念館
ヴェネティア宮殿
自慢の車
 到着ロビーの出口で「ミスター・コバヤシ!」と2〜3回呼ぶ人がいた。がっしりした体格のその人がヴィットリオ・トーゾ氏だった。がっちり握手し、歓迎して頂いた。トーゾ氏の自家用車て゛ローマ市内まで向かうことになった。「車はベンツですね。いいですね」と言うと、「ベンツはイタリアでも高級車だ。各国からお客様も来るので買ったんだ」と自慢げにおしゃっておられた。

 レオナルド・ダ・ヴィンチの銅像を後にしながら空港を出たところ右側に建設途中の地下鉄工事現場、さらにしばらく行くと左側にアリタリア航空の大きいハンガー(機体整備工場)が見えた。アリタリア航空の自社機の整備だけでなく、ヨーロッパ各国の航空機も塗装などの整備もしているとのことだった。多分ジャンボ機が最低2機は軽く入るかそれとも3機位はドックインできる大きさに見えた。

名所旧跡だらけ
 高速道路にはあまり車もなく、快調に飛ばしていたところ、低くて横幅広いの形の珍しい高圧線や緑の絨毯のような田園地帯が続いた。しばらく行くと川が見えてきた。聞くとティベレ川だった。ローマの歴史でも数多く登場する川だったことを思い出した。 川沿いの道を走り、市内に向かって行った。大きなビルはあまりないが2〜3階位の建物や住宅が目に入ってきた。

 家々のベランダには草花や洗濯物が所狭しとあった。さらに行くと、有名なカラカラ浴場跡、フォロロマーノなどの説明を聞き、自分でも知っている地名が出てきたのでもうここら付近はローマの中心街であること感じ、胸がわくわくしてきた。トーゾ氏のひときわ大きい声で説明されたのが、イタリアの統一を成し遂げたといわれているエマヌエーレ2世記念館であった。前には左右に大きな銅像があり、台座の上に騎馬兵がたっており、その後ろには柱が林のように立っている建物だった。

 道路を隔てた所にはあのムッソリーニが演説したと言うヴェネティア宮殿があった。古い古い町並みを縫うように行くと泉のある広場でどこかの組合が集会をしていた。旗や横幕を前に出し、盛んに通りかかりの人に旗を振り、こぶしを挙げアピールしていた。トーゾ氏に何かと聞けば、「あれはストライキだ」と言っておられた。

 少し坂道のトリトーネ通りを行くと私達が2泊する『ホテル・トリトーネ』に着いた。ここで送って頂いたトーゾ氏に感謝を述べ、明日の集合場所を確認してから別れた。

ホテル・トリトーネ
鉄網のエレベーター
 ホテルの入口は新しく、壁にはタイルや装飾が施されていたが中は古いものであった。フロントでチェックインの手続きをしたところ、「パスポートをあずかります」と言った。ちょっと不思議だなあと思いながら、3人とも渡した。キーをもらったがこのキーの形が面白かった。

 丁度鉄製の玉に鎖がつきその先端にキーがついていると言う感じだった。これなら、忘れないし、ホテル外に出ても重たくて持ち歩くことができない物であった。チェックインを済ませ、エレベーターは階段と階段の吹き抜けを利用したもので狭くて、鉄製の金網の箱式のものであった。操作手順が少しややこしく外と内の金網ドアをキチット閉め、行き先ボタンを押して動いた。動かすのには、色々コツがいるが動き出したらスムースだった。

トリプルの部屋
 ホテル側の都合でシングルでなくトリプルの部屋であった。ここで旅装をとき、朝早かったので日本から持ってきたおかきを食べ、お茶をわかした。今朝撮ってきたビデオの駒数を小さなのぞき窓で見ていると他の二人も「見せてくれ」と言われたので渡すと「良く撮れているね」と言われた。

 冬だからかビデオのバッテリーのへりが早かった。それで、バスルームにはコンセントがあったのでバッテリーの充電を行なった。三つの足のあるコンセントの形が面白かった。トリプルの部屋ははじめてだったが以外と部屋も広く、何をするにも共同歩調を取る関係上打ち合わせや資料を見せ合うのに便利だった。

 約1時間くつろぎ、市内に出かける準備をした。ジャンパーでは暑かったのでフランスで買ったばかりのブレザーを着て行くことにした。

凶器探知機のある銀行
 ホテルを出た後トリトーネ通りを上がり、銀行に向かった。道々で私達が日本人だと判断したのか、「マネーチェンジ?」などと言いながら両替を求めて来る人がいた。闇の私設両替人であった。銀行までわずかな距離であったが2〜3人も声をかけてくるので少々うんざりしてきた。

 銀行に入ると入口から空港のセキュリティーチェックの様に一人ひとり検査し、3回位のガラスドアを通ってやっと中に入れた。トラベラーズチェックをリラに変えた。リラの単位が円勘算(1円=0.125リラ)で大きいため急に金持ちになったような気分になった。

トレヴィの泉
トレヴィの泉、願いかなうか?
トレヴィの泉でのかけひき
 銀行から出て古い町並みを見ながら、少しもどるような感じで歩いているとそこだけが明るいようなにぎやかな声がしてきた。ドードーと滝のように音がするトレヴィの泉だった。水音に負けんばかりの団体客の歓声、コインを投げ入れる人ひと、やはりローマ観光で一番有名場所と実感させるにふさわしい所だった。

 陽気な掛声で目ざとく観光客に切手や本を売りつける売店の男もいた。 私は泉に駆け寄り、手で水をすくい口に当てた。透明できれいな水だった。前の方の中心を見るとポーリ宮殿をバックに海神ネプチューンが立っていた。『肩越しに後方にコインを泉に投げ入れれば再びローマに戻れる』という言い伝えを信じ、3人交互に写真を撮りながらポーズを決めた。

 まだ、時間があったので友人から頼まれていた切手を買うため、掛声の大きいあんちゃんの所へ行った。片事の日本語で「シャチョウ、コレマケトクヨ...コレ、オマケ..」と言いながら、私の顔先に差し出した。切手は価格が明確なため、私が電卓で計算しながら首を振り、小林さんからも「まけろ」と英語で交渉してもらった。

 相手もさる者、切手だけでなくローマの公式ガイドブック(日本語版)をつけ、切手代プラスアルファの値段を提示してきた。さらには「日本円でも良い」と言うのには驚いた。合計2000円だったが、「まあ、これで良いか」と思い手を打った。

 毎日何百何千と言う観光客相手に駆け引きをやる”歴戦錬磨の売り手”に対して、はたして負けさせたのか、買わされたのか半信半疑だった。しかし、ローマでの初の買い物だったので小脇に抱えて、トレヴィの泉を後にした。一歩路地裏に入ると先程の賑やかさが嘘のようだった。

おなかに合うスパゲッティー
 そろそろおなかもすいてきたのでレストランを探しにかかった。当然、パスタ料理、スパゲッティー店である。ほどなく、何人か出入りしてる一見してパスタ料理店と分かる皿の置いてある店があった。この店は次ぎの日に記念に会計書をもらった『ダ・エンツオ』と言う小じんまりしたレストランだった。

 中に入ると左手に手動式でコーラを出すような飲み物のクーラーがあった。それは後で分かったことだがコーラでなく、ワインを冷やしていたのだった。テーブルにつき、イタリア語一杯のメニューを見た。全くチンプンカンプンだが、2列に約20種類位びっしりパスタ料理が書いてあった。

 ウエイターが来て、注文を聞くが良く通じなかった。ただ、「ボンゴレ、パジリコ...」の発音は私も分かった。各々料理名を言ったり、隣のテーブルの料理を指さしながら「あれと同じものを頼みます」「ワインも」とオーダーした。 厨房の前でワインをそそいでいるのが見えた。私はてっきりワインはボトルに入っているものばかり思っていたが大きい三角フラスコのようなガラス容器に生ビールをそそぐような感じでつがれていたのが見えた。

 料理ができるまでここの白のハウスワインを1〜2杯飲みながらパスタ料理の話しをした。そうこうしている内にお皿に山盛りとしたスパゲティーが運ばれて来た。くるくるとフォークでまいて食べるのにはなかなか慣れないが味はきっと油濃いと思っていたが冷えた白ワインを飲みながら食べるとおなかにバンバン入っていった。

 スパゲティーとタバスコは一対のものと思いウエイターに頼むと「ない」と言うことであった。初回では分からなかったが日本の七味唐辛子のようなものもちゃんと店においてあり、それはペペロンチーニ(Peperoncini)と言うことが分かった。「まあまあ、おいしかったね」「割合安いですね」と言いながら店を出た。この店は気に入って後で2回合計3回も来てしまった。

道端に遺跡がゴロゴロ
 細い路地をしばらく歩くと交通量の多いヴェネツア広場の通りに出た。朝見たエマヌエーレ2世記念館を右に見ながらフォリ・インベリアーリ通りを歩くと目の前に円柱や長方形の石があり一目で古代の神殿跡と分かった。「すごいですね、道端にこんな遺跡がゴロゴロしているんですね」と皆で言い合った。

 あとで調べるとここはトラヤヌス帝が作ったフォロ・トライヤアーノと呼ばれる所だった。後方には半円形状のトラヤヌスの市場があった。  どこかに大きい案内版があるのかもしれないが、それにしてもここら一帯は遺跡だらけでしかも無防備に近く、日本や大阪の遺跡保存と全く感覚が違っていて、改めて考えさせられた。

コロッセオ(外観)
コロッセオ(内部)
2000年前の建築技術
 しばらく緑の木立を歩いていくと、遠くにコロッセオの遺跡が見えてきた。コロッセオは教科書や旅行案内のパンフレットに必ず写真があったので頭には入っていたので親近感を感じた。少し歩くと人の高さとバックのコロッセオがちょうど良い位置になったので変わるがわる3人で写真を撮った。横で見ていた旅行者かイタリア人かが「3人一緒の所を撮ってやろうか?」といってくれたのでその好意を受け皆でポーズを決めた。3人一緒に撮れたのはあとにも先にもこの旅行中この1枚だけだった。

 コロッセオのまわりにはローマ最大と言われているコンスタンティヌスの凱旋門があった。「パリに比べたら、えらい小さいですね?」とたずねると、小林さんが「ローマのをまねてパリの凱旋門が作られたのだよ」と答えられた。コロッセオの入口付近には赤い車輪をはめた馬車があり、古い建物の色と対象的でおもしろかった。

 中に入ると直ぐに目に飛び込んできたのが緑に苔むした中央アレーナ跡だった。ここが長径188b、短径156b、高さ57b、4階建て5万人収容できる闘技場であった。本当にかつて剣闘士や猛獣が闘かわされていたのかと疑いたくなるような静かで大きい遺跡だった。また、私は2000年の風雪に耐えぬき今でもびくともしない古代ローマ建築の技術力には感心した。コロッセオを何回も振り向きながら近くの地下鉄の駅に向かった。

疑ったらスリに見えてくる
 地下鉄コロッセオ駅でヴァチカンに行くためオッタヴィアーノ駅まで切符を600リラ(75円)で買った。長い階段を降りるとそこはホームだった。そこには電車待ちの人もいるが、わざとたむろしているのではと思われる一団もいた。車内も御堂筋線程は明るくはなく、なんとなく陰鬱だった。

1986年当時のローマ地下鉄の切符
 スリにあったらいけないと思いホームから乗車、車内、降車まで腕や肘で背広を押さえた。疑いだしたらきりがないがまわりの人がスリに見えてきて、パリの地下鉄ほどは多くしゃべらなかった。早く着けばいいなあと思いながら、しばらくすると当然のことながら何も起こらずオッタヴィアーノ駅に着いた。ここからヴァチカンまであまり距離がないと言うことで、道々露天商やショーウインドウを見ながら歩いた。

道間違えた
 いくつかの角や交差点を歩いたところ、茶色の大きな壁が見えてきた。そのまま真っ直行けば良かったが、右上に登るような感じで歩いた。相当歩いてもこの大きな茶色の壁は続いていた。小林さんが「間違えたね」と言われ、かなり登ったところにバス停らしきものや車のロータリーみたいな所があった。

 道ゆく人にたずねた所やはり方向違いだった。元来た道を逆戻りで、今度は下りだったので早かった。降りて来た所に大きいトラックがあり、松尾さんが「FIAT(フィアット)のトラックですよ」と言われた。FIATと言えば日本では格好いいスポーツ・カーしか知らないのでトラックを見ると珍しかった。

ヴァチカン宮殿
サンピエトロ広場
甲子園球場より大きい
  いよいよサンピエトロ寺院の大きなまわりの柱が見えてきた。「ここに立てばイタリア国とヴァチカン市国」と2国間にまたがっていることになる」など言いながら歩いた。回廊の中はサンピエトロ広場で甲子園球場よりはるかに大きな感じがした。近くに噴水があったのでここで寺院をバックに写真を撮った。

 この広場の中には車もたまに走っていて郵便切手を売っていた。あとで分かったことだが広場には白い石のマークが2ヶ所あり、そこに立つと左右の回廊の柱が4本一直線に見えるように設計してあるとのことであった。

 キューポラが大きく高くそびえ建つサンピエトロ寺院の入口の階段へ向かった。そこにはミケランジェロのデザインした派手な制服の衛兵が立っていた。日本の女子大生が衛兵の姿が珍しかったのか近くに行って写真を撮ろうとすると「あっちに行け!」とばかりに大きなゼスチャーて゛追われていた。

3度目のミサ
 寺院の中は夕方でもあるが薄暗かった。目が慣れていないのと、あまりにも大き過ぎてどこから見て行って良いものかと思いながら、祭壇に向かって左側から歩くことにした。色々な彫刻や宗教画が展示してあった。 奥に入るとミサの真っ最中であった。

 全世界で信者が6億人とも言われるカトリック教会の総本山のミサは重々しい感じがした。ここでも3度目のおさい銭を上げ、また、同じお願いをした。祭壇の近くには行くことができなかったが見上げると色々な飾り付けをしてあった。蝋燭や豆電球のようなものが一杯で、まわりの暗さと対照的であった。

 出口に向かうため来た道の逆を歩きそこには有名な『ピエタ』の像があった。出口で松尾さんが「私達はついてますね。パリのサクレクール寺院、ノートルダム寺院、今日のサンピエトロ寺院と3回ともミサの真っ最中でしたね」と言われた。 階段を降りると右際に郵便局が見えたので友人から頼まれていた切手を買うことにした。あいにく切手セットがなくバラで16700リラ(約2090円)を出して買った。通訳の方から「切手はヴァチカン市国の重要な財政である」と教えて頂いた。

参道の茶飲み茶屋
 サンピエトロ広場の円柱や回廊をぐるぐる見て、振り向きながら広場から出ていった。コンチリアツィオーネ通りを歩き、途中休憩のためカフェに入った。日本流に言えば参道の茶飲み茶屋と言うことか、一見して寺院からの帰りの人ばかりだった。 ローマ名物のアイスクリームを食べている人もいたが私達はエスプレッソを頼んだ。

 会計前にはガラスのケースにケーキやお土産品が陳列されていて、その中から指さしながら、買って行く客もあった。私達はゆっくりトイレに行ったり、今まで来た道のりやヴァチカン市国の話しをしていたら、南の国のイタリアでも冬は日が暮れるのが早いのか、外は薄く暗くなっていた。せかされる様に、また、参道に出て、次ぎのサンタンジェロ(聖天使)城に向かった。

サンタンジェロ城
丸ビルのような城塞
 しばらく歩くと左手の方に茶色のお城が見えてきた。これがサンタンジェロ(聖天使)と言う珍しい名前の城であった。この名前は次のような由来があった。『紀元590年に、グレゴリウス一世がぺストの流行がおさまるようにと、信者の行列を従えて祈祷に行く途中に見た幻によっている。

 教皇が橋を渡っている時、城塞の上に、大天使ミカエルが現われ、きらきらと輝く剣を鞘におさめる動作を見た。教皇はこれをもって悪疫の終わりをつけ゛たと思い、その場にひれ伏し神に祈ったと言う』このようなことから以降、名前もサンタンジェロ(聖天使)城となった。

 最初、丸ビルのような城で余り大きくないのかと思っていた。しかし、ぐるっと両端をまわって見ると、掘り囲いの城壁も入れるとサンピエトロ寺院と広場並の大きさであった。夕方で良くわからなかったが茶色の石積みは所々に落ちているのもあるがガッチリ築き上げられてあるようだった。 サンタンジェロ(聖天使)城の前を流れるティベレ川にかかるサンタンジェロ橋を渡った。このサンタンジェロ橋、サンタンジェロ(聖天使)城、サンピエトロ寺院の三つをティベレ河畔から眺めるとローマ3景と言われるくらい有名な観光風景であった。

止まらない黄色のタクシー
 ヴィットリオ・エマヌエーレ通りに向けて、ホテルに帰ることにした。途中で靴店、カメオ店、バックの店等物色しながら歩いた。カメオ等はさすが本場、多くの種類と何とも言えないいい色の物が陳列してあった。相当今日は歩いたので、松尾さんが具合を悪くされたので、これはいけないと思いタクシー乗り場を探した。

 ローマのタクシーは黄色で統一されており、この色の車を目で追い、手を上げた。しかし、空車でないのか全然止まってくれなかった。松尾さんに申し訳ないと思いつつ、重い足を伸ばした。 しばらく、歩くと見慣れたエマヌエーレ2世記念館に出てきた。ここまでくるともうホテルはすぐ近くと思い足早になった。

再びコインを投げて
 ヴィットリオ・エマヌエーレ通りから細い路地に入るとザーザー水音がするトレヴィの泉に出てきた。「昼間、コインを投げ入れたので、また、来てしまった。もう1回入れないとローマに来れなくなってしまう」と、お互い声掛け合って、再び3人で昼間のポーズをした。 泉を後にしてトリトーネ通りを歩き、ホテルに着いた。松尾さんは風邪気味なのかベッドに直ぐに横たわり、本当に辛そうだった。松尾さんに「夕食行けますか?」と聞くと、「とても行けない。私に遠慮せず、二人で行って下さい」との返事があった。 松尾さんに悪いと思いつつ、元気一杯の私は小林さんと一緒に出かけることにした。

バルベリーニ広場
ルベリーニ広場
 ホテルを出て、再びトリトーネ通りを坂のぼると外れにトリトーネの泉があるバルベリーニの広場に出てきた。この泉は1640年代にベルリーニの作で、台座に4匹のいるかを配し、大きな貝に乗った海神トリートーネ(トリトン)がほらがいを吹きならしている像である。

 広場をさらに行くと日本航空ローマ支店が見えてきた。年配の人が「異国の地で日本航空の鶴丸マークを見ると感激する」と言ってたことを聞いたことがあった。私はそこまでいかなくとも何かしらほっとする感じは持った。やはり、日本人かな。

ウェイターと歌
 通りを渡り、細い路地を少し行った所にレンガ色の感じの良さそうなレストランがあったので入った。スープ、サラダ、スパゲッティー、海老のフライ等フルコースを頼んだ。ワインとも合うのか、理屈抜きにおいしかった。また、ここの店のウェイターがプロ意識なのか本来気さくな人なのか、私達と直ぐ打ち解けて話し合った。

 少しワインのほろ酔いも手伝ってか、ウェイター含めて3人で覚えたてのイタリアの歌『アバンチ・ポポロ』を歌った。この歌は力強く、小気味の良い曲であった。 ウェイターは「私はこの歌が好きだ。でも、ここの主人は嫌いなので小さな声で歌わないとね・・・」と言いながらも、最初から最後まで声出して歌い、楽しかった。

 外国の地でこのような見ず知らずの者で一緒に歌うなど交流ができるのはお金を沢山出しても、再々できることでなく、なんか楽しかった。 帰りに会計で精算してもらうと何と139500リラ(約17500円)。「高いなー」と二人で声かけあった。よく考えるとここのレストランは門構えから中まで高級店であったのだ。

 よくもまあーこのような店で歌を歌ったものだ。それにしてもリラの単位は大きいため頭の中で換算できず、逆に、気が大きくなってしまう。

本拠地でイタリア民謡
 ホテルに帰る道すがら、二人で『フニクラ・フニクリ』『オーソレミヨ』などの民謡や先程の『アバンチ・ポポロ』をイタリアの本拠地と知りつつ、遠慮することなく、大声で歌った。ひっかかりやすい日本人と見られたのか、「遊びませんか?」と声かけられた。無視して、また、歌いながら、トリトーネの大通りを大股で歩いた。 ホテルに着き、トリプルの部屋に入ると、松尾さんがベッドに座っておられ、外出する前より血色が良かったのでホットした。「夕飯はどうでしたか?」と聞かれ、レストランの一部始終を話した。

シーザーの気分で
 皆で変わるがわる大きなバスタフ゛に入り、強行軍で歩きまわった一日の疲れをとった。出て来る鼻歌はやはりイタリア民謡で、調子ついでに洗濯もした。 寝転がり、昼間トレヴィの泉で買ったローマのガイドブックを見た。これによるとコロッセオ、フォーロ・ロマーノ(元老院、各凱旋門、シーザーの神殿、ローマ皇帝の宮殿など)を復元して書いてあり興味深かった。

 『ローマは1日にしてならず』と言うことわざは今日歩きまわっての実感とこの本からくる古い時代の想像とで、「なるほどだな〜」と心身ともに感じた。シーザーかアントニュウスになった気分でローマでの初夢を見ることにした。

(旅行記原稿作成日:1988年10月1日、ホームページ掲載日:2005年7月1日)


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