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聞いた言葉・第196回目、古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ

 

古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ

 今回の言葉は、出典から先に書きますと、松尾芭蕉(まつおばしょう)の『許六離別の詞』(柴門の辞)からです。松尾芭蕉は、下記の国語辞典(大辞林)に書いてあるだけでなく、学校の教科書にも何回となく登場している俳人(俳句を作る人)です。しかも、俳聖(古今に並びないすぐれた俳人)とも呼ばれ、現代風に分かりやすく直しますと、「俳句界の神様」みたいな人です。

松尾芭蕉(まつおばしょう)=(1644〜1694) 江戸前期の俳人。伊賀上野の生まれ。名を宗房。別号,桃青・泊船堂・風羅坊など。仮名書き署名は「はせを」。藤堂藩伊賀付侍大将家の嫡子藤堂良忠(俳号?吟)の近習となり,その感化で俳諧を学ぶ。良忠の病没後,京都で北村季吟に師事。のち江戸に下り,俳壇内に地盤を形成,深川の芭蕉庵に移った頃から独自の蕉風を開拓した。「おくのほそ道」の旅の体験から,不易(ふえき)流行の理念を確立し,以後その実践を「細み」に求め,晩年には俳諧本来の庶民性に立ち戻った「軽み」の俳風に達した。俳諧を文芸として高めた功は大きい。後世,代表作を「俳諧七部集」に収める。主な紀行・日記に「野ざらし紀行」「笈(おい)の小文」「更科紀行」「おくのほそ道」「幻住庵記」「嵯峨日記」などがある。 (大辞林より)

森川許六
(もりかわきょりく)=(1656〜1715) 江戸前・中期の俳人。彦根藩士。名は百仲(ももなか),別号を五老井・菊阿仏など。松尾芭蕉晩年の門人。絵をよくし,芭蕉が師と仰いだ。蕉門十哲の一人で屈指の論客。編著「韻塞(いんふたぎ)」「篇突(へんつき)」「宇陀法師」など。きょろく。 (大辞林より)

 俳句の”は”の字さえ分からないような私でも、松尾芭蕉の次の句は学校でも習ったことですし、詳細な意味は知らなくても暗記はしていました。
 古池や蛙飛びこむ水の音 (蛙合)
 閑さや岩にしみ入る蝉の声 (おくのほそ道)
 荒海や佐渡によこたふ天河 (おくのほそ道)
 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る (病中吟)

  本題の今回の言葉に戻ります。この言葉は、次の場面で語られました。門人の森川許六が江戸での仕事を終え、彦根藩(近江)に戻る前に師の芭蕉に会いに来ました。そして、たくさん色々な話をしたようです。この会話内容は、『許六離別の詞』(柴門の辞)に納められています。これ自体が高度な文学芸術論含めて多くの示唆に富んだ内容で、詳細なことを書けば何ページもなる位あります。

 その会話の後、分かれを惜しみながらも、次の<>内を芭蕉は、許六に別れの言葉として送っています。 < (前略) 古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよと、南山大師の筆の道にも見えたり。風雅もまたこれに同じと言ひて (後略) >

 この太文字部分の解釈として、「先人たちの、遺業の形骸(ぬけがら)を追い求めるのではなく、その古人の理想としたところを求めなさい」(日本文芸社、『芭蕉の名句・名言』より)と書いてある本もあります。この言葉は、俳句だけでなく絵画・文学・音楽など芸術を創造しようとする人の心構え、神髄(しんずい=その道の奥義)と思われます。

 さらに、この説明に補足を書くのは、愚の骨頂みたいなものですが、素人の上野式解釈や補足もしながら分かりやすくしてみますと、次の<>内みたいなものと思われます。 <先人の作品の模倣(もほう)ばかりして同じものを作ろうとせずに、先人が追い求めている心(芸術心)を探究して作りなさい>ではないかとも思っています。さらに、パソコン用語風に言えば、「何事も、複写&貼り付け(コピー&ペースト)ばかりせずに、自分独自で考えた(オリジナル)作品を作りなさい」と、似た雰囲気があると思います。

 ここまで書きますと、今回この言葉を紹介しています本人が一番恥ずかしいものです。私は、先のような芸術分野ではありませんが、素人の郷土史愛好家(福重郷土史同好会の一員)として、大村の歴史大村の城福重の石仏などを調査・研究もしています。その時に、どうしても引用・参照しなければならないのが、江戸時代に大村藩が編纂(へんさん)した(大村)郷村記、それに近代・現代発行の書籍類です。

 これらがないと、どこに城跡、史跡や石仏があるかも分かりません。また、古文書などは数回読んで直ぐに、素人が解釈できるものばかりでもありません。ですから、現地調査したり、報告文書(ホームページ類含む)作成する場合、どうしても引用・参照が多くなってきます。ある面それは、止むを得ない事柄も多いのですが、何か新発見や新解釈などはできないものかと、自分なりに考えて動いてはいます。

 その結果、今まで郷土史の先生方が発見されていない古代の寺院跡、石仏、城跡などを(共同者含めて)発見して、その紹介文書も公開してきました。中には、何回も現地周辺に行っても当該史跡を見つけきれず、諦めかけていた時期もありました。そのような経験もしながら新発見や新解釈などをしますと、先のような芸術心なくても、喜びは率直に言いまして大きいものがありました。

 このように、かなり芸術分野と郷土史研究とは違いますが、「新たに何かを求めていく」と言う点では、似た雰囲気もあるような気もしています。先の俳句・絵画・文学・音楽などは、作者がそれこそ死に物狂いで考えて完成した作品でも、他人に評価されるか、どうかは、また別次元のことと思われます。本人が生きている内に評価が高まればいいですが、炎の画家ゴッホみたいに死後になって名声が大きくなった人もいます。

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 あと、先の芭蕉の言葉後半に、「南山大師の筆の道にも見えたり」との一節があります。これは、<南山大師(空海=弘法大師のこと)の書の教えを参考にしたみたい>な言い方のようです。このように、この言葉自体、弘法大師の書を参照しつつも、さらに芭蕉自ら磨き上げ、洗練した言葉にして「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ」と言ったとも思えます。

 だからこそ、芭蕉の死後300年以上経っても、今回の言葉は多くの書籍類や様々な分野の方などによって重用されているのだろうと思います。また、この言葉は、文章で書けば短いものの、考えればかんがえるほど奥が深いともいえます。


(記:2015年7月27日)

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