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聞いた言葉・第43回目、歴史を現在に生かす

 
歴史を現在に生かす

 この言葉は、(私の地元の)福重郷土史講座の最中、講師の方から聞きました。私は、2003年11月から2004年2月まで合計8回の講座を毎回受講しました。私は、生まれも育ちも現住所も(高校卒業後25年間の大阪空港時代を除き)同じ大村市の福重地区なので、その歴史に興味があり、何か知りたいと思っていました。同時に当然、(全体の)大村の歴史も聞きました。

 講座の初回と最後の時に、講師の方から「郷土史を学ぶ目的は、単に長い福重地区の歴史を学ぶだけではダメで、それをどう現在に生かすかが大切だ」とおっしゃっておられました。(その内の少しだけを今回書きますが、この福重郷土史講座の詳細は、『福重ホームページ』の「講座報告」をご覧下さい))

 最近全国で何かと市町村合併が話題になっています。ここで、かつての大村市の市町村合併に触れます。大村市はいくつかの合併がありますが、現在の形になったのは、1942(昭和17)年2月11日(当時の)東彼杵郡(ひがしそのぎぐん)大村町、三浦村、鈴田村、萱瀬村、福重村、松原村の1町5村の合併からです。

 これは、当時の住民が自ら賛成したのではなく、(東洋一規模の)第21海軍航空廠をおくため、村ではダメということで、上から無理やり合併させられました。戦後、その海軍基地もなくなり、合併の意義をなくし、1948(昭和23)年には福重、松原両地区で再分村運動が起こりました。松原地区は説得に応じ思い止まったのですが、福重地区では住民投票で再分村賛成について、過半数を制しました。

 本来なら、当時住民自治を進めていた占領軍(GHQ)の方針からは再分村は許可されたはずですが、結果はそうなりませんでした。当時の主な産業は米を中心とした農業で福重地区は一番の穀倉地帯で経済力もありました。税収的にも困るのは、再分村に反対していた大村市側で、なんと長崎県、県議会やGHQまで使って再分村を食い止めようとしていました。なかなかそれでもはかどらないため、当時の大村市長は上京し、直接マッカーサー司令部の民生部長官に対し、分村取り消しを福重地区代表に命令する様懇請した結果、聞き入れられ所轄の長崎駐屯地司令部を通じ分村取止めの命令が出されたのでした。

 私は、これら1942年の合併と1948年に起こったこの再分村動きの是非や結果をここで再検証しようと言う主旨ではありません。これらのことは、今では歴史上のこととしても、やはり住民の意思に基づく住民自治でなければなかなかうまくいかないと言う教訓があるのではないかと思ったのでした。このことは、やはり現在でも生かさないといけないのではないだろうかとも考えました。

 さらに、私が驚いたのは、日頃大人しい人柄とか保守的と言われていた福重地区の住民が、自らの将来を考えて、(事実上、お上に対して反旗をひるがえす)再分村賛成の住民投票までして過半数を得たこの住民運動のエネルギーです。(学校その他でも習ったことなかったので)50歳代になって初めて知ったことでもあり、なんか当時の先輩住民の行動力に感心しました。

 あと、大村市の公式(非公式も含め)の紹介文やガイドマップの多くが、「大村市は江戸時代から城下町として栄え、歴史のある街です」みたいな書き方です。しかし、合併前の大村町の紹介ならこれでもいいのですが、上記の市町村合併の歴史からして、この記述は正確さを欠いています。

 実は、(旧の)福重村、竹松村、松原村は郡(こおり)地区と呼ばれ、旧石器時代、古墳時代の遺跡も多数発掘され、奈良、平安時代には京都の荘園もおかれ、神社仏閣跡も史実にも多く登場しています。その当時から江戸時代以前までは、長崎県央地域の政治・経済の中心地でした。なぜ、そうなっていたかの理由は、この地区が穀倉地帯だったからです。(江戸時代から栄えた今の大村の中心地は、米作に不向きな扇状地で、人もあまり多く住んでいませんでしたので、残念ながらそれ以前の史実も少ない状況です)

 1942(昭和14)年に1町5村で合併した大村市ですから、当然その歴史も引き継ぐべきです。できれば、大村市の紹介文として(仮に)「大村市は、旧石器時代以降の遺跡も発見され、史実にも奈良・平安時代から登場している福重・竹松・松原の郡(こおり)地区をはじめ、歴史のある街です」みたいに書き改めて欲しいものです。

 講座で繰り返し教わったのが、この福重地区は奈良・平安時代以前から有数の穀倉地帯でそれ以降も現在まで、ずっと農業が盛んであると言うことでした。大村市の農業は、福重地区がなければ成り立たないほどとも言われていました。今でも、『おおむら夢ファーム・シュシュ』(産地直売所、パンやアイス工房・販売、レストラン、各種教室など、農業振興の多目的施設)、フルーツの里ふくしげ(梨・ぶどう・みかんなどの)観光農園や産直販売所、ハウスによる花栽培など、元気な農家の多い所で、他の地域の先進的な役割をも果たしています。

 農業は、外国産とのコスト競争による収入悪化、高年齢化、後継者不足その他で、厳しい状況が続いています。この問題は全部が全部政治の問題ではありませんが、穀物自給率(近年日本は30%以下に落ち込み、世界で132番目、サミット参加国で最低)でも分かる通り、国の根本から来ています。国民の食べる食料の大部分を外国産に頼っているために、今毎日のように報道されている外国産の牛肉、鶏肉や農薬が多くはいった野菜などが大問題となり、食料危機だの食の安全は大丈夫かなど叫ばれています。

 私は世界各国どこでもやっていますが、自らの食べる食料の大部分は自国で生産すべきだと思います。さらに言わせてもらえれば、(特別な農産物は別としても)その地域ごとの地域生産=地域消費がいいのではないかとも思います。私が毎週数回行くあるスーパー入口付近に(農家の方の写真があり、野菜には生産者ごとの名前が表示してある)地元産野菜コーナーがあります。このコーナーは数年前からですが、このコーナーの方から先に売り切れています。この地元産野菜コーナー売り切れ現象は何を物語っているのか、それは、地元の安心感じゃないのかなあと思います。

 あともう一つ、福重地区の沖田踊、寿古踊は500年以上続く伝統芸能です。両踊りとも昔から約60所帯で、踊り援助者入れて約百人規模です。これはずっとこの地区のまとまり(団結力)がなければ続かないとのことでした。

 講師から聞いたこの「歴史を現在に生かす」と言う言葉は、生かすとなると並大抵ではありません。しかし、先人たちが苦労して切り開いた田畑、堤や水路、守り続けた伝統や産業は、この地域の住民がまとまって、創意工夫し、奮闘すれば何かに生かせるものが必ずあるのだと語っているように思えました。(記:2004年3月10日)

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