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(このページは、主に1986年2月23日のことを書いています)

雪化粧のパリ
 ブルッと体を震わせて朝を迎えた。窓の外を見ると、雪化粧のパリだった。寒かったが早速ビデオを回しはじめた。オペラ座の独特な屋根、(デパートの)ギャルリー・ラファイエット前の通りも良く見えた。ここの付近の建物の高さは、ほぼ均等で6階か7階建てくらいが多かった。

 ビルの大きさはそれなりに大きいのだが、各屋根の上にある煙突がおとぎの国の絵本に出てくるような可愛い形をしていた。しかも、私が見た目、部屋の数だけ(暖炉の数だけ?)あるのか、にょっきとずらっと並んでいた。また、各建物の有効利用か、必ずと言っていいほど屋根裏部屋もあるようで、その窓も並んでいた。

 「あまり外ばかりで撮っていると風邪引くよ。そろそろ、食べに行こうか」との声に、ビデオのスイッチを切り、今日外出時持って行くためにバッグに入れた。

バスチーユ広場、7月革命記念塔
バスチーユ広場
 8時過ぎにもう顔なじみなったレストランの店員に「ボンジュール、マダム」と言えた。代り映えのしないパンとコーヒーを食べながら、今日出歩くコースを話し合った。松尾さんの希望で、まずはバスチーユ広場に向かうことになった。

 これまた行き慣れたショセダンタン駅からメトロに乗り、9時前にはバスチーユ駅に着いた。地上に出ると高いオベリスクが目に入った。私はビデオを取り出し、上から下まで2分くらいかけて撮影した。このオベリスクは高さ3m位の台座から上へずっと彫刻が施された約50mの青銅製の円柱だった。てっぺんには翼を広げた天使像が見えた。

 このオベリスク自体は1830年の7月革命で亡くなった市民を弔うために立てられた『7月の円柱』(7月革命記念塔)である。あとは何もない広場だった。ここが約200年前の1789年7月14日、国内だけではなく世界中に影響を与えたフランス大革命発祥の地かと思うと少し拍子抜けした。

 ここは国民とってルイ王朝による悪政、恐怖政治を変えるため民衆が立ち上がった所である。その当時、国民はバスチーユ監獄を国事犯(政治犯)専用の牢獄と思っていた。しかし、4時間の戦闘と約百人近い死者を出しながら解放した7人の収容者には政治犯はいなくて、手形詐欺師4人、狂人者2人、近親相姦者1名であった。

 このバスチーユ監獄は元々は1382年にできた要塞で堅牢極まるもので、革命後撤去するまで約千人の労働者が半年以上かかった。悪政の象徴である牢獄の取り壊しを見物するためにカフェも出て大にぎわいだったと言う。その位民衆の憎しみは大きかったのだろう。

 オベリスクから目を転じると下の方にはセーヌ川の支流ようなパリ・ボートハーバーがあった。冬には使われていないのか、ヨットやモーターボートが小雪をかぶりながら岸に繋がっていた。

ヴォージュ広場
 次のカルナヴァレ博物館は近いため歩くことにした。その前にヴォージュ広場に行った。ここはアンリ4世が1612年に完成させたパリ最古の広場で、当時は『ロワイヤル広場(王の広場)』と呼ばれていた。その後、フランス革命などを経て、1800年からは『ヴォージュ広場』と呼ばれるようになった。ヴォージュの由来は全国で最初に地方税を納めたヴォージュ県の名誉をたたえことから来ていると言う。

 広場の大きさは約140mの方形で、周りにはアパルトマン等の36棟の建物があり、そのこには屋根付きの回廊がぐるっと囲んでいる。残念ながら雪のため、庭のシンメトリーは見えなかったが、真ん中にはルイ13世の騎馬像が立っていた。また、所どころには黒い鉄製の長椅子があり、椅子でも歴史を感じさせる物であった。

 この周りのアパルトマンにはデカルト、パスカル、ビクトル・ユーゴーなどが住んでいた所だ。そのため、ヴィクトル・ユーゴー記念館もあり、さらに探せば、王の館、王妃の館、ショーヌ館、リシュリー邸などの格式の館があると言う。夏ならばゆっくり歩いてみたい広場だった。

 さらに、(帰国して大分たってから分かったのだが)ここにはグルメファンならば全世界で有名なミシュランのガイドブックで三つ星(最高級)レストランの『ランブロワジー』が一角にあった。このレストランのオーナーシェフはベルナール・パコと言う名前で、これまたその道の世界では有名人である。このシェフはここで開店後10年もしない内に三つ星レストランに仕立て上げた腕利きの料理人である。

カルナヴァレ博物館
 ヴォージュ広場からカルナヴァレ博物館にゆっくりと15分位で行った。この受け付けで 9フランの入場券を買い、順路に従って見て行った。この博物館は、17〜18世紀の代表的なカルナヴァレ邸宅で、セヴィニェ候爵夫人が晩年を過ごした所としても有名とのことであった。

ポンピドーセンター
 ここは、パリ市の歴史を勉強するにはもってこいの場所で、しかもルーブル美術館などに比べ静かでゆっくりとできた。中に置いてある調度品も歴史を感じさせる格式のあるものばかりで、さすが元貴族の邸宅だったんだなあと思った。また、壁に飾ってある多くの絵画の内、美術の教科書でも見たことあるような絵も数点あった。

ポンピードー芸術文化センター
  ポンピドーセンターに10時に行くために横にはセーヌ川の流れを見ながら歩いて行った。ここの案内チラシによると「国立ジョルジュ・ポンピードー芸術文化センター、77年20世紀鋼鉄、ガラス、地上6階、地下2階、内部には隔壁がない構造」・・・」などと書かれていた。エレベーターもエスカレターも建物外部にある珍しい作りだった。

 このセンター外壁には高さ10m、幅5mくらいの女性の垂れ幕があったので、改めて「あー、ここは美術館なんだなあ」と再認識されるものでした。また、案内書の通り、外側にエスカレーターやパイプなどの構造物が目立っていた。

 少し待たされて中に入った。構造物などが外にあるため、その分展示スペースは広く感じた。ここに飾ってある絵画その他は、近代・前衛的な作品が多く、これらが好きな人はたまらないものだと思うが、芸術心のない私にはなかなか馴染めなかった。

大道芸人(中央奥で足を開いて立っている)
大道芸人に乗せられた
 ポンピドーセンターの展示物を見終わって、外に出ると何か近くで賑やかにやっていた。大道芸人の大声やそれに対する拍手や歓声だった。私も、ビデオを回しながら見ていると、急に小林さんに”出演”要請があり、その場でその芸人の指示があった時に声を出して叫ぶ役目を与えられたようだ。

 他の観客にも、それぞれ”役回り”が与えられ、その方々が何か声を出すたびに笑いが起こった。小林さんの番になり、ひときわ大声でフランス語とも日本語とも分からないような発音をすると、今まで一番大きな歓声や笑いが広場内にこだました。

 しばし、楽しんだ後、「小林さん、大ウケでしたね。何を話せと、あの芸人は言っていたのですか?」と尋ねると、「そんなこと、知らないよ。とにかく、どうでもいいから大声で言ったらウケたのさ」と、応えられていた。

 「あの大道芸人に乗せられたなあ」、「まあ、日本じゃ、あんまり考えられないね。パリじゃ、芸人だけでなく、皆も楽しんで1フランか2フラン出して、芸人たちを食わしてやっているみたいな土壌もあるんだねえ」とも言っておられた

サン・ジャック塔とメリーゴーランド
 次に通ったのが、サン・ジャック塔の前であった。この塔は、元々サン・ジャック・ド・ラ・ブーシュリ教会の鐘楼だったのだが、革命時に教会部分は破壊され、この塔だけが残ったと言う。高さは、52メートルで、けっこうこの周辺では今でも高い塔のため、目立つ存在だった。

 あと、ここに教会があった頃は、スペインの(キリスト教の聖地である)サン・ティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼時の起点のひとつであった。また、一説によるとパリ最古の塔とも言われている。この高い塔で科学者のパスカルは、大気圧の公開実験を おこなったことでも、有名な場所であった。

 あと、この塔の直ぐ横にメリーゴーランドが回っていた。真冬のかなりさみしい風景が続く中で、ここだけが、電飾もともり、音楽も流れ、少人数ながら子供たちの歓声も聞こえ、賑やかな明るい感じがした。

クスクスの昼食
 今日の昼食は、フランス人にもけっこう人気のあると言うクスクスを食べに行くことにした。ポンピドー・センターから歩いて10分くらいにクスクスを食べさせてくれる小さな店があった。このクスクスは、北アフリカ料理で、何の種類か分からなかったが小麦の粉を粟(あわ)くらいの粒状にしたものを、薄いカレーのルーをかけて食べるものだった。

 カレー自体は久しぶりの香りだったので何かしら懐かしさを覚えたが、食べ物としてはそう美味しくはなかった。たまたま、私に合わなかったのか、はたまた、この店の味がそううまいところではなかったのか、色々だったろうと思った。先に一人大学生らしい男性の日本人が相当食べ残して、その割にはチップをけっこう置いていかれたのに一同ちょっとした驚きだった。

 店を出て、「流行っている割には、こここのクスクスはイマイチだったかなあ」と言いながら、次に向かうことにした。ここからシテ島までは、あまり離れていないと言うことで歩いて行った。
コンシェルジュリー

コンシェルジュリー
 パリ発祥の地と言われているシテ島は、セーヌ川の中州だった。この一帯総てが名所旧跡と言う所ばかりと言っても過言ではなく、ノートルダム寺院、サント・シャペル教会、最高裁判所、コンシェルジュリー、さらには花市、鳥市なども曜日によってはあるようだ。

 コンシェルジュリーは、外観上も(写真でお分かりの通り)尖がり屋根の塔などもあり、元王宮だったんだんあと分かります。あと、それ以上にその後有名になったのは、革命時かの有名なマリー・アントワネット、ダントンなどをはじめ2600名が断頭台に送られる前に過ごした牢獄であったと言うことです。

 中には、その当時の部屋などを再現している所もあり、革命当時の模様も少し分かりました。ただ、何しろかなり暗いのと霊気ただようと言えばややオーバーかもしれませんが、少しそんな感じのする場所でした。

サントシャペル教会のステンドグラス
サント・シャペル教会
 次に行ったのが、サント・シャペル教会でした。ここは、ゴシック建築でも有名で、内部は2層に分かれていた。狭い階段を登ると、そこは、ほぼ前面ステンドグラスばかりの内部と言っても過言でないものだった。

 ステンドグラス自体は、今まで見てきた教会などで見てきたので、馴染みはあったが、それにしても、この教会のは、「スゴイ、綺麗」の一言だった。しばらく、ここに立ち止まっていた。

 ステンドグラスの高さ、長さ、奥行きに至るまで1248年当事に出来たものとは思えない、作りであった。ガラスに描かれている絵には色々と意味があるのかもしれないが、ずっと見とれていた。

 真冬の淡い光ながら、このステンドグラスだけは光彩を放っており、何かを超えて荘厳さと華麗さを感じた。この教会を出た後、寒さと歩き疲れもあり、一旦ホテルに帰り、休養することにした。

パリ最後の晩餐は、「豚の足レストラン」
オッ・ピエド・コション
 夜になり、今日は小林さんお勧めのレストランで夕食をとることにしていた。『オッ・ピエド・コション』に向かった。ここのレストランは、いくつかのガイドブックにも掲載されているかなりの有名店だ。しかも、年中無休、24時間営業店で、忙しい日本人旅行者にとってはありがたい店だった。

 店の名前『オッ・ピエド・コション』は、”豚の足”と言う意味だそうだ。ビルの2メートル位の高さに赤いビニールのひさしが掛かっており、白文字で店の名前が書かれていた。入った時が丁度繁忙時間帯だったためか、1階カウンターで飲み物を飲みながら待たされた。

 しばらくすると、2階の奥真ん中あたりの4人がけのテーブルに通された。この店では、今まで食べたことのないようなフランス独特な物を頼もうということで皆一致した。エスカルゴ、ポトフ風肉の煮込み、白ワイン。それに真冬ならではの生牡蠣などをウェィターにオーダーした。

 生牡蠣は広島産のような太めではなく、どちらかと言うと宮城産のような小粒で引き締まった感じの身だった。これにレモン汁をしぼって食べると食欲をそそる味だった。エスカルゴ料理はかたつむりに違いはないが、香草や香料の効いたソースがかかっていて、先入観で持っていたイメージよりは食べやすく、ワインに合っていた。スープは重すぎて私には合わなかった。

カナダ娘のキス
 しばし、料理談義に花咲いていると、隣のテーブルが気になった。そこには若い男女ペアーだが、あまり話しは弾んでいないような感じだった。何とはなし、話しかけると、特に、女性の方が乗ってきた。聞けばどうもカナダの女性とフランス人の男性のようだ。

エスカルゴ
 小林さんが、日本のこと、今回の旅行やパリのことなどを英語・フランス語を取り混ぜて話されると盛り上がってきた。最後の方には別々のテーブルにいたのではなく、最初から5人一緒にいたような雰囲気になってきた。

 話せない私は楽しい国際交流のささやかなお礼にと飛行機を形どったネクタイピンをパリジャンにさし上げた。松尾さんがソーラー式の電卓をカナダ娘にプレゼントされた。まだ、この電卓を持っていなかったのか、珍しいのか体全体で喜ばれ、「サンキュー」と言いながら私たち3人へ変わるがわるキスしてまわられた。2人は先に席を立たれ、「グッバイ」でお別れした。

 「いやー、電卓一つでキスしてもらえるとは」、「あれはカナダ娘をパリジャンが接待しているようだった。2人だけでは退屈で、女性の方が面白くなく、こちらの話しに乗ってきたのでしょうかね」などと勝手な想像も含めて話しが進み、ワインのおかわりまでしてしまった。

 かなり大きな声で騒いでいたので目立ったのか、あるいは少し厨房が暇になったのか、シェフが私たちのテーブルに挨拶に来られた。お互いの紹介、今日の料理について話し等をした。小林さんの抜群のフランス語力のせいか、シェフもにこやかに、たまには冗談交じりの会話も続いた。

 それから、新聞紙を広げた程ではないが、かなり大きなメニュー表を持ってこられた。そのメニューにはフランス語だけでなく、日本語でも書かれていて分かりやすかった。メニュー表面の縁取りには赤色の豚の図柄が書いてあった。これを私たち3人ともプレゼントすると言うことだった。シェフに「メルシー」を連発した。

 値段は、かなりかかった。多分に白ワインの勢いも手伝い「最後の夜の贅沢だから、まあ、いいでしょう」と言い合いながら、パリ最後の晩餐は終わった。

ホテルでの宴会
 ホテルに帰ったあと、3人ともほろ酔いかげんも手伝い、部屋で歌おうと言うことになった。日本国中の民謡や歌謡曲も含め、尻取り歌で次から次へと歌を繋いだ。一人ではこうはいかないが、3人もいると1時間位続いた。パリのホテルで黒田節やソーラン節を歌うのも、また、一味違うものだった。

(旅行記原稿作成日:1988年10月1日、ホームページ掲載日:2005年11月14日)


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