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聞いた言葉・第130回目、科学が後追いして地球の寿命を考える

科学が後追いして地球の寿命を考える

 まず、初めに今回のこの言葉、 標題通りに受け止めないようにお願いします。あくまでも、何か化学的、物理的根拠を持って述べられているという言葉ではなく、一つの考え、意見としてご覧願えないでしょうか。また、今回の言葉は幅広い、取りとめもないようなこともまで書いている点は、あらかじめご了承願います。

 私は『福重ホームページ』を作成している関係上、歴史や郷土史にも興味を持っています。そのことから今回の言葉は、平安末期頃や鎌倉時代に流行った末法思想、経筒・経塚や弥勒菩薩などと関係しています。あと、先の言葉の解釈を詳細に書きますと、それだけでも何ページも必要となってきます。そのため、このページでは弥勒菩薩だけについて国語辞典の大辞泉を引用して次の<>内を記しておきます。(下記の太文字などは上野が付けた) なお、末法思想、経筒などを詳細に知りたい方は、私が作成して掲載中の「大村の経筒」シリーズ、用語解説などを、ご覧頂けないでしょうか。

 < 弥勒菩薩(みろくぼさつ)= 「兜率天(とそつてん)の内院に住み、釈迦(しゃか)入滅から56億7000万年後の未来の世に仏となってこの世にくだり、衆生を救済するという菩薩。弥勒仏 >

 私は、上記の国語辞典で「釈迦(しゃか)入滅から56億7000万年後」と言う部分に注目しました。人の一生を仮に100年間としても、その時間の長さは地球や人類の歴史からすれば瞬きにもなりません。そのような人の寿命からすれば「56億7000万年」と言う年数は、それだけでも気が遠くなると言いますか、私のように、その日暮らしでさえままならないような生活をしている者にとって本当に考えも及ばない、それこそ天文学的な数字です。

 ただし、この数字には、仏教上の根拠と言いますか、ある計算式に基づいていると言われています。これを詳細に書きますと、さらに長くなりますので例えば「56億7000万年の計算」などと文字入力して検索して見て下さらないでしょうか。沢山のページが表示されますので、ご参考願います。

 私が今まで学校や郷土史の先生方に聞いたりホームページなどで調べたところ、平安時代末期頃には天災や末法思想との関係もあり、表現が適切ではないのですが分かりやすく言いますと、当時の人々は”地球終末”的な考えにとらわれました。そして、「56億7000万年後に人々を救済して下さる」と言う弥勒菩薩の再来を信じて、お経を入れた経筒を経塚に埋めて祈ったと聞きました。

 そのようなことから今まで色々な方から、肯定論も否定論も含めて様々な意見を聞きました。例えば「この56億7000万年と言う年数は、地球の寿命説ではないか?」、「なぜ、大昔の人が、このような数字を出したのか、科学が後追いして計算している」、「この56億7000万年は地球の寿命年数ではなく、仏教上の計算を掛けていけば出てくる数字だよ」、「気にするような根拠ある数字ではない」みたいなことでした。

 私のような素人は、教えて下さった方々の意見に対し、いつも「あー、そのような考えもあるのか」と関心しきって聞いていました。例え数字自体が違って「56億7000万年」であろうが、「1億年」あるいは「数千年」であっても、また弥勒菩薩の再来と言う仏教上の理由だったとしても、さらにはこの事柄の真偽そのものや論ずること自体の是非があったとしても、私は全く別の考え方で、いくつか大昔の方々の思いを感じています。それは、主に次の3点です。

(1)天文学や学問上を除いて普通の日常生活上で時間を数えたり必要と思われる年数などは、長くても100年間位ではないでしょうか。通常は数千年も1億年も必要ないと思われます。それが大昔の人は宗教上の理由とは言え(真偽のほどはさておいても)上記のようなの数字の概念を考えたり、計算していたと言うだけでも私は驚きました。

(2)大昔の人は自分や家族のことだけでなく、人類そのものの永続や未来を信じて遠大かつ壮大な願いを込めたり、弥勒菩薩の再来のため経筒などを造られたのだなあと思ったことです。

(3)「歴史は繰り返す」という言葉もあります。現在の社会的な不安含めて様々な事柄は、末法思想が流行った状況と大差ないようにも見えますが、そのような繰り返しの中で大昔の人の取った考えや行動は、逆の意味も含めて参考になるような気がしました。

 上記(1)(2)(3)の補足意見も次から書いていきます。現在の科学技術を持ってすれば、広く一般にも宇宙旅行の可能性さえもある時代となっています。また、1秒間に気の遠くなるような計算能力を持ったスーパーコンピュータ、あり余るほどの大量生産力、世界の出来事が瞬時に入手できる通信やインターネット技術など、どれを取っても大昔からすれば考えられないような素晴らしい科学や技術の進展状況です。

 反面、そのような科学や技術の進歩があっても、世界では戦争、暴動、飢餓などは21世紀になっても、なくなっていないばかりか深刻化しています。日本でも年間自殺者3万人、学校を出ても就職さえままならない、あるいは仕事に就けても不安定な雇用実態、真面目に歯を食いしばるような努力を続けても中小企業の倒産、なんとか現役を無事努め上げても老後の不安な状態など数え上げたら切りがないほど社会不安はあります。つまり、科学や技術の進歩と、社会不安などの解消は正比例していないばかりか、かえって増大しているような現在の状況です。

 今日の社会状況は、平安末期頃の天災や末法思想などによる人々の言い知れぬ不安と、どれだけ違うことでしょうか。それは大昔の幼稚な考えと、はたして現代人が笑えることでしょうか。いくら科学万能論を振りかざしてみても、結局は現在生きている多くの人々の不安に応え切れていないような気がします。「安全神話」に基づいて原子力発電所(原発)を推進しても、一たび事故が発生すれば取り返しのつかないような状況を造り上げて、それが科学の、技術の進歩と言うのでしょうか。

 そのような意味だけをとれば、大昔も今の社会不安も、人の受ける感覚は変わりないような気がします。そんな中で、当時の人々の考えや行動は、現在の科学が後追いして考えるようなベースがあったのかもしれないとも思えます。

(記:2011年7月18日)
  

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