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聞いた言葉・第189回目、宗教にも欠点がある。だが、それは人間に欠点があるから。

 

宗教にも欠点がある。だが、それは人間に欠点があるから。

 今回の言葉は、映画「天使と悪魔」<原題:Angels & Demons、2009年公開のアメリカ映画)からです。主な俳優(役名)は、トム・ハンクス(ロバート・ラングドン)、アイェレット・ゾラー(ヴィットリア・ヴェトラ)、ユアン・マクレガー(カメルレンゴ)などです。このページは、映画紹介ではないので映画内容それ自体は、詳細に書いていません。この点は、あらかじめ、ご了承の上、閲覧をお願いします。

 今回の言葉は映画最後半部で、アーミン・ミューラー=スタール(シュトラウス枢機卿)が、次の「」のように語ります。「宗教にも欠点がある。だが、それは人間に欠点があるから。この私も含めてね。(Religion is flawed but only because man is flawed. All men including this one.)」  

 私は、原作を読んでいませんので詳細知らないのですが、推測ながら今回の言葉は、この原作者や映画監督(制作関係者)が、最も言いたかったことではないかなあと思っています。 (何故そう私が思ったのかは、後で書きます) たとえ私の解釈が違っていたとしても、映画上のことではあるのですが、この言葉のシーンだけは印象深く覚えています。

 なお、この映画は、最初の『ダ・ヴィンチ・コード』(原題:The Da Vinci Code、2006年のアメリカ映画)の続編みたいにして作られています。しかし、原作本(ミステリー小説)である「天使と悪魔」の方が2000年発売で、『ダ・ヴィンチ・コード』は2003年に出版です。つまり、原作本(いずれも著者はダン・ブラウン)では、約3年間早く出版されています。 あと、Yahoo!映画(紹介ページ)のあらすじによると、次の「」内が書いてあります。

 「宗教象徴学の権威、ロバート・ラングドン(トム・ハンクス)は、秘密結社・イルミナティの復活を探るべくローマへ旅立つ。17世紀、バチカンの科学者への弾圧の陰で結成されたイルミナティが、今にも教皇候補の暗殺を計画しているという。ラングドンと科学者ヴィットリア(アイェレット・ゾラー)は、ガリレオの暗号コードの解明に乗り出すが……。」

 このあらすじにも書いてある通り、新教皇になる有力な4人が行方不明、そして次々に暗殺されていきます。そして、その中で、ロバート・ラングドン教授などが謎の紋章や(一都市を一瞬に破滅させるような危険な)「反物質」のありかを探し求めていく、息つく暇もないような緊迫したシーンの連続です。

 そして、事件が終息した後、冒頭に紹介したシュトラウス枢機卿が、なぜ、今回の言葉を述べたのか、それは同じ宗教内で同じ宗教関係(役職)者などが事件の首謀者であったからです。ここで、改めて宗教の意味を国語辞典の大辞林でひきますと、次の「」内のことが解説されています。

colosseo01.jpg (14221 バイト)
サンピエトロ広場とオベリスク
colosseo01.jpg (14221 バイト)
ヴァチカン宮殿
サンピエトロ寺院と広場
サンピエトロ寺院クーポラ

 「宗教=(1) 神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また,神仏の教え。(2) 経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し,積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。アニミズム・トーテミズム・シャーマニズムから,ユダヤ教・バラモン教・神道などの民族宗教,さらにキリスト教・仏教・イスラム教などの世界宗教にいたる種々の形態がある。」

 この辞典の解説通りならば古今東西、どの宗教でも本来、「人々の安らぎ(救済など)を得る」」ものであって、争い、ましてや戦争や人の殺害などは起こらないはずです。しかし、学校の歴史の教科書にも載っているような世界でも日本でも宗教戦争や争いが頻発してきた歴史もあります。当然、現在もアラブ地域などで宗教上の対立が根底にある紛争は、毎年毎日のように伝えられている通りです。

 この映画で題材になっているキリスト教も、例えば古くは10回近くおこなった十字軍遠征、科学者への弾圧などは誰でも知っている有名な事柄です。日本でも戦国時代、例えばキリシタン大名の所領だった大村領(長崎県央地域)や有馬領(島原半島)などでは、キリシタンによる他宗教弾圧事件(仏教僧侶の殺害、神社仏閣・仏像の焼き打ち・破壊・略奪など)を引き起こしています。(詳細を知りたい方は上野作成の「福重ホームページ」の「大日堂(キリシタンから殺害された僧侶・峯阿乗の墓)」、「大日堂と峯阿乗の碑」、「誤解を招くような表現、その3、キリシタン時代に起こったこと」などのページを参照願います)

 このようなことから、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は2000年3月12日、バチカンのサンピエトロ広場で ミサを行い過去2000年間にキリスト教会が犯した過ちを認め謝罪されたことは、あまりにも有名で、当時多くの方に驚きと、ある種の感動さえ広がりました。そして、今回紹介中の (映画の原作はミステリー小説ながらも) 映画「天使と悪魔」でも事件の首謀者たちが宗教関係(役職)者などだったため、シュトラウス枢機卿が「宗教にも欠点がある。だが、それは人間に欠点があるから。この私も含めてね。」などと言ったのだと思います。この言葉は、先のローマ法王ヨハネ・パウロ2世の謝罪の話と相通じるものがあるのではと思いました。

 ここで、話しは変わりますが、なぜ日本国憲法第20条(下記の条文参照)に信教の自由と政教分離が明確化されているかについてふれます。
日本国憲法 第20条
第1項 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。 いかなる宗教団体も、国から特権を受け、 又は政治上の権力を行使してはならない。
第2項 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
第3項 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

  この「信教の自由と政教分離」の条文が作られたのは、学校では戦前の戦争推進と神道と関係あるように習ったような記憶がありました。しかし、実は他宗教、例えば仏教と政治との一体化(政教一致)されていた時代にも数多くの問題が発生していたと、後で聞きました。(例えば、なぜ平城京から長岡京へ遷都したかは、政治と奈良の仏教関係との一体化していた弊害を考慮しての説もあるようです)

 私は、憲法関係も全く素人ですから、この憲法の条文と過去の事例と関係があって、「政教分離」が条文化(明確化)されたと断定はできません。しかし、いずれにしても古今東西、「政教一致」でおこなわれた政治、社会体制では多くの問題があったことは確かとも言えます。そして、そのような多くの教訓から日本国憲法の条文は作られたのではないしょうか。

 あと、私の住んでいます長崎県の世界遺産運動のことで紹介します。改めて申し上げますが、県民の多くは産業遺産であろうが、キリスト教関連遺産であろうが、世界遺産になること自体は賛同されていると思います。そのことは私も同じ意見ながら、一つ申し上げなければならないこともあります。それは、ユネスコの世界遺産への『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』運動で、主に県内発行の関係書籍・ホームページ・新聞・テレビの内容で戦国時代の歴史内容についてです。

 世界遺産運動を進めるために先のリンク先ホームページ、沢山の書籍類が出版され、メディアでも多く報道されています。しかし、県HPの「長崎のキリスト教の歴史」ページでも分かる通り、極簡単に書けば、「キリシタンの歴史は迫害・弾圧・殉教・禁教させられた、そのような中でも信仰を守り江戸時代末期頃に信徒が発見され復活した」みたいな書き方ばかりです。つまり、歴史的に「キリシタンの光と影」があるならば、キリシタンの輝かしい「光」のみの表現方法なのです。

 しかし、このページ中盤で既に述べた戦国時代、キリシタン大名だった大村領や有馬領内で、その迫害の前にキリシタンによる他宗教弾圧事件(仏教僧侶の殺害、神社仏閣・仏像の焼き打ち・破壊・略奪)などキリシタンの「影」の部分は、ほぼ全く記述されいないし、報道もされていません。まさしく、長崎県内独特のキリシタン史観の表現方法なのです。

 欧米では、行政や報道機関が、先のような片方の事実や意見だけを取り上げる方法=アンフェアなやり方は、慎むべきことで、完全公平は無理でも出来るだけ別の事実や意見も取り上げることが定着していると聞きます。なぜ、アンフェアなやり方を続けられないかについては、たぶん今の時代、その行政や報道機関の信頼を落とすからでしょう。

私の関係ホームページ
 大日堂(キリシタンから殺害された僧侶・峯阿乗の墓)
 大日堂と峯阿乗の碑
 誤解を招くような表現、その3、キリシタン時代に起こったこと
 全ての人をいつまでもだまし続けることは出来ない
 真実を自分で探す時代
 疑うことと確認することは違う
 一幅の絵画は千の言葉を語る
 知恵の光を見るには、まず自分を空にするのだ
 人は言うことよりも、やることを見よ
 反対意見にも真理あり
   また、今後、世界遺産になったら、それはそれで今度は世界各国の人達へ、今のような、まるで隠し事みたいなやり方やアンフェアなやり方が、いつまでも通じると県や報道関係は考えておられるのでしょうか。私は、後で、そのアンフェアなやり方の反動もあるのではと心配もしています。「全ての人をいつまでもだまし続けることは出来ない」とアメリカ国民向けに言われたのは、リンカーン大統領です。しかし、この言葉は、全世界でも、この日本でも通用する言葉ではないでしょうか。

 話は、今回の言葉に戻りますが、映画のワンシーン上のことではあるのですが、「宗教にも欠点がある。だが、それは人間に欠点があるから。この私も含めてね。」は、聞きようによっては人や宗教の謙虚さ、奥深さととも将来を見すえた見識とも私は感じました。「自分の信ずる宗教は絶対正しい、完全無欠」と言う人には近寄りがたい雰囲気ですが、このような言葉を掛けられる方には、むしろ親近感さえ湧いてきます。

(記:2015年5月11日)

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