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3)土地探しと農地の宅地転用

 94年の夏は大変な猛暑でした。8月24日朝に残念なことに父が亡くなりました。その前年位から頭の中だけで漠然と「ログハウスを建てる土地をどうしようか」と思っていたことが、法事など帰省する機会も増えたこの頃から具体的に考えるようになりました。

 まず、法律上ログハウスは市街地に建てにくいと言うことは知っていました。また、私自身も隣の庭が見えるような市街地ではなく、実家のように大村湾や長崎空港が良く見える眺望のいい、まわり何もないような土地が欲しかったのです。

 それで、最初は一人でバイクに乗り、大体の住宅地域と無指定地域の場所は分かっていましたので、どこか空き地がないか探してまわりました。ここで、一つ気付いたのは高速道路(長崎自動車道)の上と下の土地では騒音が断然違うと言う実感です。実家は高速道路よりも上でかなり騒音もしています。しかし、下の方は以外だなと思える位違うのです。これだったら、下の土地だなと思いながら隣町やさらに遠いところまで何回となく見てまわりました。

 次に、自分一人だけでは心もとないので、父親がわりに面倒を見てもらっている隣人の福重さんと一緒に土地探しを開始しました。
 1.眺望が良くて、
 2.まわり何もない、
 3.高速道路よりも下で、
 4.しかも無指定地域
と言うかなり厳しい条件を私はお願いしました。

 車を止めては歩きまわり、その地域の方に尋ねると言うやり方で、空き地だけなら、10ヵ所近く見ました。2年間に渡り、この土地探しを繰り返していると、私の出した条件(1.眺望、2.まわり何もなし、3.高速道路より下、4.無指定地域)で、合致した所はいずれも空き地もしくは農地でも、農業者年金と水道をどうするかの問題がありました。

 農業者年金をもらっている方は「土地は売っていいけど、収入があったと言うことで年金が入らない」と。また、水道は簡易水道の引かれている所もありましたが、ボーリングしなければならないと言う土地もありました。結局、また、振り出しにもどりかけた頃に「上野君、灯台もと暗しだけど、同じ町内の実家の上に荒れ地がある。見るだけみようか」と言うことになりました。

 そこは私の実家とお隣の福重さん宅の真上方向で、私も学生時代、芋掘りや公民館などに行く時、通った市道の直ぐ脇にある荒れ地(当時は農地でみかん畑だった。その後荒れ地になった)でした。石垣の上にたつと、前には鏡のような大村湾と長崎空港が端からはしまで見え、左方向には頂上にテレビ塔も見える五家原岳から琴平岳も望め、さらに右方向には郡川、九州火力発電所松原工場越しに西海橋の方角まで一望できる所でした。また、T字型市道の下には町内で管理している簡易水道のパイプが敷設されていました。この水道管からは家までの引き込みは、5メートル位あれば大丈夫と言う距離でした。高速道路の騒音も聞こえはしますが、実家よりは低いレベルでした。

 「ここはいいですね」と言いますと、「うん、不動産屋さんも数回見に来た場所だ」と教えてもらいました。福重さんの自宅であの土地の所有者など聞くと名義は同じ町内だった方で、現在は農協が管理している土地とのことでした。早速、福重農協に電話すると「まだ、売れていない」とのことで、「いずれ、農協に相談に行きます」と返事していました。

 農協では支所長さんにあの土地の面積、地目(土地が田畑、山林、宅地など種類を示す名前)、所有名義のこと、現在の状況など色々話しを聞きました。ひとつ問題になったのが農地の宅地転用(略して、農転とも言う)の手続きでした。この農転は「ある年度に行われる『一斉見直し』の時はかなり短期間に行政手続きが出来るが、その直後の年度はなかなか時間がかかる」とのことでした。「今からならざっと2〜3年はかかる。買うと言うなら、農協で手続きはしてあげますよ」と言われました。

 農転の期間のことは気になりましたが、今遅らせればさらにまた長引くし、誰かの手に渡る可能性もありましたので、最後に購入の意思を伝えました。「契約は農転完了まで出来ない」と言うことで、口頭契約と言う扱いでした。
 この農転は農地法の手続きで地元の大村市農業委員会、長崎県農業委員会、長崎県知事の審査ならびに許可が必要でした。退職金をあてにしか家を建てられない財政状況でしたから、一日も早い許可を待ち望んでいました。96年夏頃に「今年の秋頃には許可が出るのでは」と農協から聞いていました。結果、足掛け3年間首を長くして待って、97年2月25日に許可が降りました。

 もう一つ問題があったのは土地の高さでした。T字型市道の高さより約3メートル低い位置にあることでした。当初、市道から道をスロープのように作り、そこに家を建てようと言うプランでしした。水対策(家は道路より高い方が水はけが良いため)や土地の有効利用の点から難がありました。さらにもう一つ隣接している市道脇の農地(市道に取られたため、幅約3m長さ約35mの細長い畑)を購入しようとの案が浮上して来ました。しかも、この二つの間には里道(赤道とも言う、公有地のこと)があり、やや面倒なことになりかけました。しかし、一生に一度の宅地造成と言うことで、費用増や手続きの面倒さはあってもやり切ろうと思い、同じ町内の農地所有者や大蔵省長崎財務事務所に頼むことになりました。この三つの土地を併せれば、実面積は約190坪近くになり、さらに有効面積は広がることになりました。

 農協の管理している土地以外の農転は97年5月27日に許可が降りました。また、里道(公有地)は払い下げの申請を大蔵省長崎財務事務所に行いました。契約は98年2月4日に調印し、お金を支払いました。後日法務局へ所有権登記も行い、名実ともに私のものになりました。

以上のように三つの土地の購入のため、普通なら経験しない農転、里道の払い下げ、さらには土地売買契約書の自らの作成など、いい勉強になりました。また、土地探しについて、一時期はどうしようかと思いかけた頃もありましたが、何事もあきらめず、しかも、自分の条件も捨てずに粘った結果と関係各方面の方々のおかげとつくづく思っています。今は「住めば都」のたとえの通り、自分だけはいいと思っています。(記:1998年3月)

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